子供の頃シール貼るのすきでした

フランスに4ヶ月ほどしてわかった、日本人色々

 

 

○合わない日本人はいる。


山崎まさよしの「セロリ」という曲に、”育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない”という全てを包み込む歌詞があります。

本当に当たり前のことですが、人間誰も同じではないのです。


外国にいると、日本人・フランス人・黒人・どこぞの移民等という、ざっくりとしたわかりやすい違いに目が行きがちで、なかなかどうして、性格や趣味なんていう、少し掘らないとわからない違いはどうにも意識が届きにくい。まして自由に使えない言語が飛び交う環境で、”しゃべること”自体に意識を集中させなくてもコミュニケーションが取れ、かつ似たような生育環境を通ってきて、しかもなんのご縁か同じ街の同じ学校に通っている。この関係に期待を寄せない方が無理だって話じゃないですかね。

でも実際のところ日本人だからって同じような感じのひとなわけがない。
そりゃ、YES/NOをはっきりさせない等の”日本人っぽさ”は共有できるけれど、私とそいつはただ同じ学校にたまたま居合わせたたまたま同じ国籍の赤の他人だ。仲良くできれば御の字だけど、仲良くできることを期待できるはずがない。日本にあれだけ日本人がいて、友達ができない私だもの。ここで仲良くできたらそれは奇跡と呼んでもおかしくない。


結果的には、その合わない日本人と私は価値観とコミュニケーションマナー解釈の違いで疎遠になってしまったのですが、最初からちっとも期待しないで、ただたまたまそこに居た人として接していれば、もうすこし面白い話なんかも聞けたのではないかな。と少し後悔もしています。

 

○レッテルの貼り方

ついでにいうと、自分のしらない”都会の大学生”の生活はとても面白かったです。自分のいた場所が特殊な場所という自覚はあったけど、他大学から来た人たちとの比較で、相当面白おかしい場所に居たことを再認識しました。良かれ悪かれ。

大規模な大学への憧れもあります。イベントとかの規模が文字通り桁違いだから。あといろんな人に会えそうだから。でも意外とそれも幻想なのかもしれない。

シティーボーい(自称コミュ障ウェイウェイ系)のお話から察するに、規模も人数も多い結果、敵/味方・有益/無益なんかを判断する時間が極端に少ないんじゃないかしら、という印象を受けました。
集団の母数は多くても、結局似たようなキャラや指向の人がサークル・部活単位で集まるせいで、結局似たような人しか集まれない。
そういう集団の中でさらにキャラの取り回しを考えた結果、○○キャラという大きめのレッテルを貼って、そのレッテルの範囲内で一個人を取り回すという、大変便利な技も教えてもらいました。

しかし注意点がひとつ。
レッテルは確かに誰かの性格を共通見解を一言で言い表す、いわばあるあるネタの逆です。ぴたっとイメージにハマるから面白い。しかし貼ったレッテルが大きすぎたりずれていたりすると、極端に面白くなく、なにより貼られる当事者もおもしろくないので気をつけなければなりません。そういう宴会芸・団体芸って難しいなとおもいました。
それと個人的にはそういうレッテルからはみ出した”そうじゃない部分”にこそ旨味があると思うのです。魚でいうところの骨付近。

自分の知らないことを知っている人や考えないことを考える人と出会って話し込む機会の多さという点では、下界と隔離された山の中の方でよかったな。